poemblogへようこそ。ご訪問くださり、ありがとうございます。今回は、詩6篇と雑記1となります。ご覧になって何かを感じていただければ、とても嬉しく思います。さまざまな事象をモチーフにして書いています。つたない詩の作品ばかりですが、どうぞよろしくお願いいたします。あなたの心に届きますように。【18回目の投稿】
太陽と私
休むことを知らない太陽
光をこの地上に注ぎたるは
優しさの表現のひとつなのでしょう
所以は光なき世界は当然に闇となり
不安と恐怖を招き寄せるからです
笑顔が太陽そのものの君
休むことをしようとしない君こそ
太陽なのでしょうか
どうか休める時は休んでください
君自身の体もいたわってください
私は危惧していることがあります
君はどこか生き急いでいるように
みえるのです
なにかに導かれているようにも
みえるので
いつも笑顔でうんざりしませんか
太陽はひとつでいいのですから
それに
ある時
君の心が垣間見えた時があったのです
生々しい血のにじんだ絆創膏がX字で
貼ってあったのを見たのです
私は悲劇をこれ以上見たくない
ごく身近な人たちの
苦痛にゆがんだ顔も見たくない
悲劇が起きた現場に私は片足を置いたまま
どうしようもない悲しみに苛まれました
わずかな力も悲しみによって攫われました
それでも生きていこうと思えたのは
こんな境遇にいる私にも
太陽が光をこれでもかこれでもかと
注いでくれたからなのです
やがて私自身を問う入口へと
誘ってくれたのです
私という存在は何なのだろうか
太陽も唯一無二ならば
私も唯一無二だ
こんなことを第三者に尋ねたところで
生きる当事者同士であるから
返答に窮することは間違いのないこと
私も悲劇に遭遇しなかったならば
そのような問いも
発することはなかっただろう
ましてや日々が平穏無事あったならば
いちいち答えの内容な問いを
わざわざ自分に向けることはないのだ
いかに言葉を交わそうとも
いかに胸を弾ませ朝まで語り合おうとも
胸底いっぱいに納得せしめる答えを
手にすることはなかったに違いない
人との対話を否定している訳ではない
悲しみを昇華させる答えをつかむのは私だ
太陽は唯一無二であり
軌道を外すことはない
私も唯一無二であり
軌道を外すことはないはずだ
悲しむことは軌道を外すことではない
むしろ軌道そのもの
冬の祈り
重い色
日も暮れれば顔が闇と同化する
長き冬よ
祈りを捧げたこの冬に
冷たき風の中に
天使がいること願いて
居場所の設計図を
目をこすりながらこしらえる
約束をしたのは
随分と前
星を眺めてる
日ごろ感じなかった宇宙の大きさだ
祈りの発するところと
祈りの届くところが冥合する
世間の噂話を君は信じようとしている
やめたまえ ただそれだけはやめたまえ
愛の翼
愛の翼の羽ばたくところ
荒波に突き出た黒き岩
すべてを黙らす厳寒の古木に
光の差さない地平の陰に
荒涼たる砂漠に転がる骨に
私がいるそんなところへ
愛の翼でもって
やさしい風に乗りながら
舞い降りてくることを
信じてまつ
そしてひたすら待つ
ああ
出会いし時より
あまりに深き時間
あまりに尊き期間
あまりに愛の開きし時に
忘れじこととはこのこと
胸にしまい瞬時に進む
ああ 眩しき 愛の翼よ
ああ 貴女よ
本当の優しさ
あなたの目の前に姿をみせないけれど
あなたの心の声を聴いている
あなたの涙を知っている
あなたの目の前に姿をみせないけれど
あなたの運命を見つめている
あなたの覚悟を感じている
本当のやさしとは何かを教えてくれた
私も百倍の勇気を出さなくてはなりません
今のままでは受け止めることはできません
心の扉をあけるまで
相手が心の扉をあけるまで待ち続ける時
時にそれは何年も待ち続ける状態となる
ただひたすらに
今も待ち続けている状態であり
その姿勢でいるのなら
無意味なことはなにひとつなく
砂粒のようなことも意味があるように思う
ノックもせず
待つこともせず
相手の心の扉をぶち壊す人が
跋扈する時世にあって
心の扉の奥から
なにやら詩のようなものが聞こえてきた
「あなたはいない
そばにいるのに
冷えた身体は
太陽さえもかなわない
私はいる
そばにいなくても
温もりの心は
太陽さえもかなわない
遠くに聞こえる花の会話
月光に照らされた苔の陰
私の右手に何かが触れた
それが強くなってきた
私の右手に
あなたの涙が落ちた」
君を讃える
真面目に
静かで
誠実で
そして
優しく
聡明に生きている君
花を愛し鳥と会話し
風に便りを感じ月に祈りを捧げ
刹那にも変わらぬ君のすべて
嵐のさなかも堂々たる振る舞い
紅く燃える強いエネルギーが
鉄をも溶かす故に彼の人とおなじく
君は知り得たのだね
役に立てたい名言・格言
「脱皮できない蛇は滅びる」
フリードリヒ・ニーチェ(哲学者)【「運命を変える偉人の言葉」リベラル社】より引用。
実存主義。ここでは一切触れないでおきます。厳密には、ニーチェの著作を読んだことがないですし、いやより厳密にいえば、著作は手に取って開いてみたのですが、数秒で閉じてしまいました。これは難解だというのが、著作から勢い良く伝わってきたのです。ですので、ひとつとして述べることはできないからです。ニーチェという哲学者は実存主義の先駆者だそうです。実存主義が何なのかはわからなくとも、ニーチェという名は、それは無論、聞いたことはありますし、昔から知ってはおります。
こんな塩梅ではありますが、筆をすすめたいと思います。
ニーチェが述べた「脱皮できない蛇は滅びる」というこの言葉です。まあ難しくは感じませんでした。道理といえば道理ですから。ただ蛇は脱皮する生き物と認識していますが、なぜ脱皮するかまでは考えたことがありません。「脱皮できない蛇は滅びる」ということは、蛇が生きていく上にあって、いわば、古い皮を脱ぎ捨てないと新しい皮を身に纏った状態にならない訳で、生物として大きくまた成熟しないということなのだなとこの程度を思いめぐらせた次第です。
人間は生物として、脱皮するというようなことはありませんが、この言葉が示唆しているのは、なんとなくつかめそうかなと思いました。大きく言えば、価値観など。身近なことで言えば、方法やスキル。そして根底にあるのは、その当事者自身。旧態依然としたままでは、好むと好まざるにかかわらず、この世に置いてけぼりにされるということが、しばしばあるということをふわっとした感覚的でも感じているところです。ただ、新しく脱皮した直後というのは、あれやこれやと慣れないこともあって、ついつい慣れ親しんだ以前へと後戻りしそうになったりします。でもそれは最初の段階だけでしょう。時が経てば、大抵慣れてしまうもので、そうなってしまえば、なんてことはありません。職場における仕事のルールが変わった時などは、特にそう思うものですが、やがて体が覚え、習慣化されれば、どうってことはなくなります。
ただ根底にある当事者自身というのは、職場の仕事のルールのような外界の変化に対する自分自身の対処だけでなく、まさに自分自身の内面の変化でまさに脱皮をする自分自身と相成ります。言葉でいうのは簡単なのですが、いざ実践となるととても難しいことです。では、自分の内面の変化を脱皮するようにうまくできないか。
結論的に私個人の考え方ですが、感覚としては、古い自分を脱ぎ捨てようと先に思って励むよりかは、新しい自分をイメージして実行に移し成長しようと思うことの方が、結果として、自然にまた同時に古い自分も脱ぎ捨てられるのではないかと思いますす。気持ちの中では、すでに新しい自分が活躍しようとしている、そんなイメージです。とはいえ、それなりの計画や準備も必要は必要ですし、エネルギーがなくては途中で頓挫してしまいかねません。ただ、すべての条件がそろわないとできないという訳でもないと思うのです。それと、それなりの粘り強さがなくてはならないと考えます。
明年、令和7年の干支は蛇ですが、私はこれまでの自分という古い皮を脱皮させ、新しい自分という皮を身に纏うことができるでしょうか。とりとめのない文章となってしまいましたが、文章においても一皮むけた自分をと切に願っております。
【編集後記】最後までご覧くださり、ありがとうございました。18回目投稿、無事に終えることができました。これからも、やはり更新速度はゆっくりになると思いますが、またご覧いただければ嬉しく思います。よろしくお願いいたします。
追記:NHK大河ドラマ「光る君へ」の主演、俳優のまひろ役の吉高由里子さん、藤原道長役の柄本祐さんらのトークショーに行ってきました。裏話なども聞けてよかったです。脚本家の大石静さんのドラマに対する思いなどは、心に響くものが多くありました。いかに視る人のことを考えて作っていたかを語られました。