poemblogへようこそ。ご訪問くださり、ありがとうございます。今回は、詩6篇と雑記2となります。ご覧になって何かを感じていただければ、とても嬉しく思います。さまざまな事象をモチーフにして書いています。つたない詩の作品ばかりですが、どうぞよろしくお願いいたします。あなたの心に届きますように。【1回目の投稿】
生きる力
鬱蒼とした森を歩いている
あらゆる生命の居場所
この森とともに呼吸する
荷物は何も手にしていない
未来も森である
無数の鳥たちのさえずりの間隙を縫って
どこからか川の流れる音が耳の奥に届く
青い空が私を眺めている
大地を歩くことへの羨望の眼差しである
無数の星々が物語を欲している
この森は続いている
旭日の清新さがやってきた
動物が行き来した形跡のある窪みに出会う
眠気と昨日に起きた出来事への不安を除去
樹木が味方となって私を囲ってくれる
生きる力が内在していることを
森から学んだ
感謝でいっぱいだ
生きる力を感じるようになったから
嘘や飾りは必要のないことなのだ
生きる力は私自身であり森である
美しい言葉
言葉が美しいから
真っ黒に煤けた僕の心も
ずいぶんと明るくなった
君の心の美しさは
言葉に映し出されている
美しい君の言葉に救われた
僕の心に
美しい言葉たちが
舞を舞っている
小瓶
小瓶の水が底のあたりまで減っていた
彼女はそれに気づき
台所まであゆみ
その小瓶に新しい水を注いだ
枯れかけた葉も取り除いて
もう一度
一輪の花を小瓶に挿し
窓辺においてやった
その瞬間
ぼくの部屋の空気が変わったし
小瓶も嬉しそうだった
一輪の花も歓びのほほえみを浮かべている
なにより
彼女の心の美しさに
生の真実なるものを見る思いがした
柔らかい光がさす
ふたりは微笑み
一輪の花を挿した小瓶を眺めた
ゆったりした時間の中
ふたりは光になってひとつになった
すべて思い出す
今日までの努力によって
真実にふさわしいといえる
自分自身を発見できたことを
うれしく思う
努力といっても平凡で地味なもの
背中に重い宿命を背負っていただけのこと
すべて思い出す
苦も楽も成功も失敗も
自分自身を発見できて歓喜に震え
すべて思い出せたのだのだ
自分自身が真ん中にいる
この世界の
夕焼け
夕焼けがきれい
数日前もきれいでした
それよりもきれい
きれい
やっと云えた
海
四方を山に囲まれていて
冬は暗くなるのが早いのです
太平洋の沖合のどこかで
強い潮の流れを感じました
日本に向かって
その自然の力は北上しています
日常のあれこれ(雑記)
心が冷え切ってしまったままでは、やはり周囲の人々に対しては、冷たい対応をしてしまいがちです。私はこれに悩んでいます。時々、周囲の人々に冷たい対応をしているのではないかということです。もともと、人間関係を円滑にするのは、容易ではありませんがしかし、相手がどういう人間性の人であろうとも、きちんと対応することが、一応、基本だとはわかっているのですが、なかなか難しい。私の日常の人間関係を振り返ってみると、冷たい対応が見え隠れしているように思うのです。
まず、自分の心が冷え切っていないかどうかをよく見極めることが必要だなと思います。なぜなら、冷え切った心のままだと、周囲の人々に温かい接し方は、難しいからです。(当たり前といえば当たり前)
そうなると、この人は冷たい人だなという印象と認識を持たせてしまい、場合によってはギクシャクした人間関係になりかねないです。結果、損をするのは自だけということになります。上手く言えませんが、自分の心を温かくして、自分にも、周囲の人々にも接していくというのは、長い目で見た場合、好循環の人間関係を構築していくのではないかと考えます。温かく接してもらえた人が、悪い印象や感情を抱くということは、考えにくいです。
自分の心を温かくするには、私の場合ではあるんですが、たとえば、いま生きていること自体に深い感動や感謝があり、いま生きていること自体当たり前だとは思っていない、これまでにお世話になった人々の支えがあったればこそ、いま、自分はこうやって生きている。こう思うだけで、冷え切った心から温かみがでてきたりします。周囲の人々のためにも、何かしらお手伝いをしていこうと思えるようになったりします。それは小さなことなのですが、近所の人に、明るく挨拶したりするということです。冷たく接しないように注意しています。また、言葉で相手に伝えなくとも、心の温かさというのは相手にじわりじわりと通じるものだと思います。そのような体験が過去にありました。疎遠になっていた人間関係が少しだけですが良好になりました。
「日常のあれこれ」と題して、人間関係に対して私の考えを簡潔にまとめてみました。(あくまでも私見です)また、深く考察できればなと思っています。
ご覧くださった皆様の暮らしの何かしらのヒントになりましたなら、嬉しく思います。ありがとうございます。
役に立てたい名言・格言
「成し遂げようと決めた志を、たった一度の敗北によって捨ててはいけない」
ウィリアム・シェイクスピア(劇作家)【「運命を変える偉人の言葉」リベラル社】より引用。
シェイクスピアのこの言葉。もとより、私は意図して抗ったわけではありませんが、若い頃、それこそ「たった一度の敗北」で、志を捨てた人間、捨てざるを得なかった人間でありました。敗北の前に大をつけねばならないレベルのものでありました。この敗北というのは、私自身だけでなく、周りの人たちに直接的にも間接的にも迷惑をかけてしまったある出来事を指しております。この敗北は、別の言い方をすれば、失敗であり、失態といえます。それにより、志を成し遂げるべき居場所を失ってしまいました。少々の敗北、失敗ならいくらかの叱責を受けるか、場合によっては目をつぶってもらえたりするでしょう。いわばレベル1から2程度なら、次また頑張れよで済むのですが、私の場合は、レベル5以上であったと思います。いわば取り返しのつかないレベルであったのです。
その「ある出来事」からずいぶんと時が経ちました。いま一度、このシェイクスピアの言葉をかみしめて私の結論を導くならば、その通りだなと思えます。「ある出来事」を起こした当時は、このシェイクスピアの言葉は、絵空事のようにしか思えなかったでしょう。現に居場所を失ったわけですから、この言葉に救いなど感じることはできなかったと推察できるます。
では今はどうなのかといえば、第一に敗北をしてはならないなということを強く感じます。敗北するということは、何かを失ったりすることで(信用や実績、友人など多数)当の自分自身も実に惨めな気分になります。
ただ、それでも精一杯、努力しても、敗北することはあります。ですので、たとえ無残な敗北を喫したとしても、志を捨ててはならないということをシェイクスピアは言いたかったのだと思います。
志とは私自身だと言えると思います。それを捨てるということは、私が私自身を捨てるということになります。そうであってはいけない。だから、大敗北であったとしても、志を捨てるなということなのだとあらためて思うのです。しかも「たった一度の」と言っています。おそらくは、幾度敗北しようとも、とも読める気がしてならないのです。志を捨てることの方がレベル10に匹敵する敗北となるからだと思うのです。
【編集後記】初投稿です。最後までご覧くださり、ありがとうございました。コツコツとブログを作成してまいります。更新速度は、とてもゆっくりとなると思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。
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